2016年 07月 29日
「まれびと」追慕〜(´・Д・)」*・゜゚・*:.。..。.:*・ |
まあブログなんてものは時間が空いた時の独り言であって、ブログに何かを書くために頭を使うのもバカくさいので、これからはヒマな時だけ書きたいテーマを備忘録
として使おうかと考えている〜( ´Д`)y━・~~
前回の稿で「まれびと」についての断片を書いたが、アレはホントに断片に過ぎないので自分でも間違えないようにしたいと思う。
折口学によると(「民族史観における他界観念」)、動物のことを、「この世における彼(動物)は、人間身を持つ我らであり」と書いている。たとえばジュゴンとか海ガメ、イルカ、鮫などは、人間の身になりたいと思っている我等である、という。そして、往いて他界にある自分の身は(他界を折口は「もとつくに」と読んでいる)、たとえばジュゴンの身であるかもしれない、とも書いている。
(いま自分が見ているジュゴンはじつはあの世に往った自分の生まれ変わりかも知れないーという意味と考える)
この世における彼は我等であり、あの世にある我は彼等である。彼らは、ただ人間身をもって我等の前に現れることが出来ないということだけが、常世人やおとずれ人(「まれびと」のことか?)と違うところだ。
つまり波頭をくぐっていくイルカや、海藻を食べたり岩の上に憩っているザンの魚(ジュゴンやアシカなど)や、空を飛ぶ白鳥を見ると、自分の心の底にある原郷、懐かしい故郷を思い出して一体感を覚えるような時、それは「まれびと」の前の「プレ・まれびと」に出会ったということです。この常世の彼(動物)が、現世の私であるという不思議な相関関係は折口学の到達したものなのだろう。なにせ時間や空間、しかも生物のスタイルまでもが交換可能なのだ。
さらに折口は「或は時として定まつてある一方から吹くそよ風、彼等と約束ある如く照らし来る方面の光線、或は彼等の為にばかり其処に立ち、峙(そばだ)ってゐる様に見られてゐる樹木巌石…」などの命なきものもやはり「まれびと」だと言っている。
たしかにアニミズムはあらゆる万物に魂は宿るとするが、折口の場合、それが「まれびと」として現世の我々の前に現れているのだとするのです。
彼らは人間身を持っていないから、常世人ではない。「プレ・まれびと」は人間身ではないからたまそのもの、つまり霊魂ではあるが、何かに宿った未完成な霊魂であるとする。
なぜ人間が現在いる世界と対立した彼方にある他界を考えはじめたか、というとそれは人間が死ぬからなのだ。人間が他の動物と違うのは、死後を考えうる唯一の動物だということ、人間とは何かということを民俗学が定義した場合、「死後を考えうる動物としての人間」が第一定義である。死はすべての動物たちに共通であっても、人間だけが幻想を持ちうるからである。
人間だけが幻想を持ちうるということは「政治史のごときもやがて社会人類史の1ページになるのかもしれない」と喝破した柳田國男も言っていることからも解る。二人の民俗学の巨人がもつ他界感というものは、一般に云われる「この世とあの世」だけではなく、いくつも他界はあるという折口の言を見てもわかる。
二人に共通するパースペクティブの広さを考慮に入れて民俗学に対峙すると、仏教が導入されて以降のものは、いわば借りもの(当人たちは言っていない)のようなものとして一面的には捉えておく必要がある。
十万億土だとか、西方浄土というのは仏教が入ってきてからの感覚だと柳田は言う。その意味では折口ほど他界を遠くにあるとは考えていない。集落に採訪に行くと、すぐ外れに賽の河原なんてあるし、すぐそこに死者の霊魂がいる。
この世とあの世はほとんど一体で、はっきり区別なんてできるものではない。生きながらも他界にいるし、呼吸はしていても死者とされる人々がいる(遠野物語)。実際にそこにある風俗を採集して分析するというアプローチが民俗学なので、あるがままの学問という他にはない独自性を運命付けられているのである。
いわばこれは槃特が塚に生えた忘れ茗荷の一本のように記憶されるのかも知れない〜〜(´・o・`)
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by jj111iii2016
| 2016-07-29 16:15
| 日記・出来事