2016年 07月 28日
民俗学から見た日本人と「まれびと」❗️(・_・; |
日本人が島国の土着の民として定着すると折口信夫のいう「まれびと」が登場する。常に外の何かを待っている心性、まれに遠くからやってくるものを珍重する日本人の精神構造が「まれびと」を生み、そのことは『万葉集』以前から現在まで変わっていない。
日本人は遥か彼方から異国の匂いを運んでくる文化にうっとりとする。しかし「まれびと」は「よそ者」でもある。お客さんとして来る分には構わないが、滞在しちゃ困るわけだ。留まっていては「まれびと」にならない。民族的な反撥や排他的な感情がでてくる。
他民族に対する歓待度は距離に反比例する。「まれびと」を敬慕するのに反比例して、土地の神などのスピリットをないがしろにする形になってしまう。
日本人の心性というのは中華思想や古代ギリシャのそれとは真逆で、自分たちは何かが欠けているという思いが強い。だから外から何かを持ってきて埋めなくちゃいかん、という潜在意識が不動にある。
「まれびと」を待つ時には一方でたいへんな「畏れ」を持っている。「祭り」を見ても分かるが、やってくる神というのは、神迎えとして現れる時には良い性質を発揮するが、神送りー帰る時には怖いものになってしまう。
祖先の霊魂をおくりだすときは、同時にそれについて来た招かれざる客、魑魅魍魎も一緒に帰っていく。だから一旦帰るとなると、もう戻れないようにいられないようにしてしまう。すべての祭式をはずし捨て去り、ハレの日からケの日に戻してしまう。
「まれびと」が自分の意志でやって来る形ではなく、土日や祭日だから祭をやるようになっては、もう祭とはいえない。「安息日」としてのキリスト教に基づいた日曜日という段階で霊魂から逃げていくだろう。
太陰太陽暦から太陽暦に変わったのは明治政府が外圧に負けたからであって、その時点で日本は西欧列強の価値観を受け入れてしまったのである。
労働力不足を埋め、日本人の霊性を落とし込めるために竹中をはじめとした売国奴どもが移民政策を取ろうとしているがおそらくそれこそ徒労に終わるだろう。
自分の生活の安泰をまず確保してから、神の都合を勝手に変えても恥じないクソ学者やそれに連なる強欲信者には必ずや天罰が降るであろう。
すでに天の岩戸は開いているのだから〜(^人^)
by jj111iii2016
| 2016-07-28 08:44
| 日記・出来事