2016年 10月 10日
出船入船世は情け〜❓Σ( ̄。 ̄ノ)ノ⁉️ |
出島は1634年より2年の歳月をかけて、ポルトガル人を管理する目的で、幕府が長崎の有力者に命じて作らせたものである。
1638年春に幕府は島原の乱を鎮圧し、以後キリシタン摘発を強化した。そのためカトリック国であるポルトガルとの関係も断絶寸前となるが、ポルトガルがマカオからもたらす中国産生糸などが、当時の日本にとって必要不可欠な物産であったため、背に腹は代えられないの例えで、カピタン・モールの将軍への謁見拒否という条件で出島は生き延びた。
ところが後発のオランダが江戸に参府し、ポルトガルとの関係の断絶を幕閣に訴え、オランダがポルトガルに取って代わってしまう。ポルトガルとの関係を断絶しても支障がないと判断した幕府は、長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布し、ポルトガル人を出島から退去させる。
翌年の1640年にはマカオからのポルトガルの使節が、貿易再開を要求して長崎渡来したが、幕府はこの使節を処刑してしまう。恐らくオランダからのワイロを糾弾された幕閣により行われたものだろうが、結局ポルトガルは怨みを呑んで撤退する。
その後出島は無人化して荒廃、長崎は困窮してしまう。
長崎救済の名目で、平戸にあったオランダ東インド会社の商館を出島に移すことになり、以後、武装と宗教活動を規制されたオランダ人との200年に及ぶ貿易体制の始まりとなる。
こうしたオランダとの貿易により、日本には多くの文物とともに、世界の最新情報がもたらされることになる。
蘭学者や蘭方医学も管理下ではあるが、江戸中期より盛んに学ばれることになる。ターヘル・アナトミアは『解体新書』と訳され、杉田玄白などの活躍の下地となる。
当時は外来語も盛んに使われ、例えばアルコール、コーヒー、ゴム、ガラス、ペンキなどなど。
(カルタ、メリヤス、ボタン、コップ、カボチャ、金平糖、天麩羅、カステラなどはポルトガル由来)
珍しいところでは「博多どんたく」という祭りの「どんたく」もオランダ語。Zondagは本来、日曜日のことで、日本に入って休日の意味が加わる。さらに土曜日を示す「半ドン」の「ドン」も同じ。半分休日だから土曜日なのである。
明治維新後はやはりオランダ東インド会社の裏にいたイギリスが日本を支配するために本格的に乗り出して来る。福沢諭吉がその頃、横浜を訪ねてみたら、英語の看板がいっぱいあって、これからは蘭学ではなくて英学だと判断した話しが伝わっている。
文明には自然を壊すことでしか、言い換えれば「役に立つもの」のみを手に入れるために、その他を壊す技術によって成り立つという一面がある。福沢諭吉の示したものは、先見の明があるというよりは、日本人が役に立たなくなった(と判断した)ものを、いとも簡単に打ち捨てる気質を示すものだろうと思う。
現世利益とでもいうのか、今だけ金だけ自分だけというのは、昔も今も、男も女も変わらないようだ。日本に「文明」なるものがあるとすれば、それは現世利益に対する嗅覚の鋭さ、そんなものだったのかも知れない(*0*)
出島は高度成長期に周りを全て埋められ、一部の上には道路が敷かれ、文化財価値のある建物も取り壊され、どこが出島かも判らないまでに破壊され尽くした。しかし今は長崎市の観光スポットとしてカピタン屋敷などの再建が進み、広報活動も盛んだそうだ。それも現在はそっちの方が金になるという判断からだろう〜囧rz
文明国ヌッポンを構成する日本人は、出島のように内に閉じ込められているのか、それとも世界に向けて発展を遂げる存在となるのか〜時間が無い鴨ー❗️((∧( 'Θ' )∧))
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by jj111iii2016
| 2016-10-10 12:59
| 日記・出来事