2016年 09月 03日
『阿部一族』に見る日本人の姿〜(-。-;❗️ |
『阿部一族』と言っても『アヘ一族』のことではない。あんなのはどうでもいい〜{(-∀-)}
「元亀・天正の頃は、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった。阿部一族討ち取りなぞは茶の子茶の子の朝茶の子じゃ」との記述があり、表題の謂れである。
鴎外の小説はあくまで小説。その手引書となった『阿部茶事談』自体が討ち取りに参加した柄本又七郎の伝承であり、史実とはかなり異なるものではあるが、殉死を主題にしたものである。
あらすじとしては寛永18年(1641年)、肥後藩主・細川忠利の病状悪化に伴い、側近たちの殉死願いの中で、阿部弥市右衛門に対しては「生きて新藩主を助けよ」との遺言があった。
遺言を守り、弥市右衛門は新藩主の光尚を補佐していたが、彼が農民出身ということもあり、命を惜しんでいるとの評判が家臣の中で起こり、危害が一族に及ぶことを恐れた弥市右衛門は、一族の前で切腹を果たす。
しかし遺命に背いたことが今度は問題となり、殉死者としては扱われずに家格も実質的に落とされてしまう。鬱憤をつのらせた嫡男・権兵衛は、前藩主・忠利の一周忌法要の席上で髻(もとどり)を切り、その非礼を咎められて盗賊同様に ” 縛り首 ” とされる。
度重なる恥辱に次男の弥五兵衛はじめ一族郎等は覚悟を決めて、屋敷に立てこもり、藩の差し向けた討手と死闘を展開して全滅してしまうという何とも理不尽な士道=組織におけるやりきれない内容である。
武士の殉死は家光の時代の「武家諸法度」で固く禁じられており、幕命に背いたかどで、改易や斬罪に処されてからは行われることはほぼ無くなったが、この「阿部一族」の場合は、その20年前の話であり、江戸時代初期は風習としてまだ色濃く残っていたのである。
細川家18人の殉死を巡っては称賛の声、またそれへの妬みなどが連日家中の人々の胸を騒がせていた。時代がどうであれ、自死を選んだことに対して品性を備えた人間は口を噤むものだ。だが軽佻浮薄な輩は身分や立場に関わらずどこにでもいる。
そして彼らの格好の餌食にされたのが阿部弥市右衛門であった。島原の乱の後、小倉から熊本へ転封となった細川家は、広く人材を求め、有用な人物には身分に関わらず登用の途を開いた。宇佐郡山村の惣庄屋出身の阿部弥市右衛門もその一人であった。農政と事務的手腕を買われて家臣として抜擢されたのである。一国の経営にとって、殖産振興は何より大きな課題である。
19人(弥市右衛門を入れると)の殉死者の多くは忠利に召し出された新参の家臣であり、島原の乱後の財政難から人減らしや家臣の棒禄の減額などの藩政改革、さらに譜代の家臣たちの新参者に対する嫉妬が、忠利死後の憎悪となったことが殉死への精神的な強制に繋がったのではないかとされる。
「先君からの寵愛を受けて、本来ならば真っ先にお供をすべき御仁じゃがやはり百姓上がりゆえに、腹を切るのが恐ろしいのであろう」自分の無能はさて置いて、これくらいのことはまことしやかに噂話となっただろう。
また武士の殉死には義腹、論腹、商腹の三つがあり、来世まで供をする固い決意は義腹、朋輩の切腹を真似るは論腹、子孫への優遇を計算してのものを商腹と言った。
イヤな言葉である。人の死に対しても格付けを行うということか。確かに動機に不純なものが伴い、有能な家臣が無益に失われることから家康も殉死、追腹を嫌っていたが、もっと早くに「武家諸法度」が口達されれば、阿部一族の悲劇も無かったのだろう。阿部弥市右衛門に対しても「商腹」と決めつけられた。噂話に余念のない戦闘しか知らない譜代の家臣たちの存在があった。
殉死というのはそもそも新藩主の許しがなければ犬死となってしまう。18人の嘆願も実は拒否されていた。にも関わらず彼らは殉死を選んだ。さらに言えば、阿部弥市右衛門もまた他の者たちと同じ日に切腹をしているのだ。だが前述の『阿部茶事談』ではその時には死なず、後で追腹を行ったことにされている。これは自身も阿部一族の討伐に参加して阿部弥五兵衛を槍で討ち取ったことにより功を賞された柄本又七郎の脚本によるものである。森鴎外はそれをただなぞったに過ぎない。
肥後守光尚の家督相続が無事に済み、家中の役替や加増などが行われ、18人の殉死者の遺族に対しての手厚い保護もあった中で、何故か阿部弥市右衛門は殉死者として認められず、嫡男の権兵衛にも知行を4人の弟たちに分けた上で家督相続が認められた。これは阿部家の根幹となる本家が微禄になることを意味する。これは光尚の覚えがめでたく、弥市右衛門とはそりが合わなかった林外記による小才覚によるものと言われている。
これをそのまま書いてしまうと細川家の失政に繋がる。それで柄本又七郎は嘘を言った。
権兵衛は髻を切った際に、目安(訴状)を提出している。これが血気盛んな24歳の新藩主・光尚の政道を強く批判したものと見なされたことから上意討ちという誅伐の原因となったのである。阿部というお家大事に考えることが出来ないほどの恥辱に権兵衛は発心したのであろう。
残された阿部一族は老若合わせ54人。4月20日の夜、酒宴を開き、屋敷の掃除を済ませ、襖障子も取り払い、足手まといの老人・婦女子は一足先に自刃したり、男たちの手にかかり庭に掘った大穴に埋められた。
翌早朝からの討手との死闘は半刻(約1時間)に及ぶ。
人間の価値を身分や出自によって決めつける人の愚かしさは、封建時代を過ぎた今でも強固である。人々は愚の尾を今も引きずっているのである〜(。-_-。)
by jj111iii2016
| 2016-09-03 07:42
| 日記・出来事