2016年 07月 08日
ヌケガラの人生〜(´Д` ) |
日本の学校制度は、明治維新後から始まる。旧帝大を頂点とした教育の中央集権化を進め、国家という概念を植え付けることで従順に命を投げ出せる人材を育成するのが目的であった。それは今も変わらない。そのために効率よく洗脳作業がし易いように、一人の教師に大勢の生徒という教会風のランカスター方式が採用された。
学校に行くということは親から子供を引き離すということだ。また、親の価値観からする教えを否定するためでもある。これは何世代にも渡って完遂される。
勘違いをしている人も多いと思うが、「義務教育」とは教育を望む生徒に対して国が負わなければならない義務を指すのであって、その逆ではない。だから考えがあって、子供を一切学校に行かせなくても罰則などは無い。
純朴な奴隷を作るのは基本であって、そこには良心や自由に基づく思考は介在しない。
学校に行って成績を上げて頂点を目指し、友人などは作らず、蹴落とさなければ安泰な未来は来ないと教えるのが日本の教育である。
常に頑張ることが賞賛され、能力を専門的にすることで大局的・総合的な見方をさせない。「世間」という名の支配者の価値観を押し付け、世間に認められた者こそが楽に金を稼げることを教える。
だから彼らは従順に物事を覚え、嘘をつくことを憶えて、要領よく考える世渡り上手な中身の無いヌケガラ人間になることが、彼らの目指す最大の目標になる。そして権威や見せかけだけの幸せを謳歌する。
裏返して言えば、これは恐怖による専制支配の教育版であろう。人々はこの恐怖に縛られながら幸せになれると誤解し、勘違いをしながら盲信するが、実はこれが不幸の連鎖の始まりになる。
良心の喪失した人間に幸せなどは来ない。それが恐怖に裏打ちされたものである以上、価値観となって人に対しても恐怖を与えようとする負の連鎖は全ての人々を不幸にするしかない。スターリンは「恐怖は長持ちする」と喝破したが、確かに支配する手段として恐怖は有効な道具である。それは人々が集団を作りたがることに支えられているとも言える。
集団を国家としても良いのだが、どちらにしても概念に過ぎない。ただの幻想であり、実体など無いものだ。集団に入ることで帰属意識を持ち、その中での安寧を求める。そして集団を擬人化し始める。人々は集団に付き従うだけの無自覚、無思考、無責任という何の価値もない存在になりたがる。
日本人は自分で物事を考えることが大嫌いな種族である。一言で言えば極東の島国から一歩も出たことがない唯の負け犬の土人である。これは我が世の春を謳歌している官僚やその召使いである政治屋も同じく、教養の無い土人そのものである。
これを補完するために教育制度を整備してきた面もあるが、昭和天皇がマッカーサーに語った日本人像に端的に表れている。曰く、
『日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れ易い。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない』
なるほど、こういう国民だと支配者は楽で仕方がないから、腐敗の限りを尽くします〜(;-o-)/
by jj111iii2016
| 2016-07-08 12:54
| 日記・出来事